2012年6月9日土曜日

宗教とは何か3 ~ ブッダの瞑想法とは


宗教というセキュリティ・ソフトがインストールされるのはどこだろう。それは一見理知性の大脳であるように見える。いわゆる世界宗教などを見れば、膨大な神話や教義が正に大脳的な言語概念で提示されているからだ。しかし未開社会における宗教の起源を見れば、それは原始的な情動である自己愛に発しており、例え文明的に発達した宗教であっても、それが起源しアクティベートされるのは情動の脳、すなわち辺縁系における『信仰』という理屈を超えた心的態度であるのは明白だろう。

全ての宗教概念は言語という媒体機能を通じて共有(インストール)される。しかしそれがアクティベートされてセキュリティ・ソフトとして実効力を発揮するためには、辺縁系に発する信仰(情動)という解発因が必須なのだ。

例えば、若くして夫を亡くした母が、まだ幼いわが子にこう言って聞かせたとしよう。

「お父さんは、決してAちゃんを捨てて消えてしまったのではないのよ。お父さんはね、夜空のお星さまになっていつもあなたを見守っていて、何か困ったことがあったら必ず助けてくれる。だからAちゃんもお父さんに褒められるように頑張ってね。」

もしAちゃんがこの『神話』を一時的にも『信仰』することができれば、彼の傷ついた心はより速く回復し、神話を信じる事ができずに苦悩し続ける場合に比べて、より前向きに力強く生きていく事ができるだろう。それは彼の『適応価』を確実に高めている。母が子に語ったこの『神話』は典型的なセキュリティ・ソフトとして、彼の心に影を落とした苦悩というウィルスを、適切に駆除する事に成功したのだ。

お星さまになった父、それはあらゆる『神』の原風景だ

ここに宗教というものが持つ、もうひとつの機能的原風景が存在する。彼がお星さまになった父に対して抱く思慕と信頼の感情は、そのままあらゆる宗教における超越的神格に対する信仰心の萌芽とも言えるだろう。

まとめると以下のようになる。

『宗教とは、大脳に宿ったOSである自我意識が、自身の持つ本質的な脆弱性をカバーするために自ら創造したセキュリティ・ソフトであり、その機能は、辺縁系に発する排他と利己という生物学的情動を支え励ますと同時に、社会的な適応価を高めるためにその情動を適宜抑制し、その利己的な生存意思を踏みにじるような過酷な経験によって自我意識が深く傷ついた場合、その苦悩をウィルスとして感知し駆除するものである。そしてこれらの効能が働くためには、人の心が持つ超越者に対する信仰という心的態度が、その解発因として何よりも必須となる。』

私はこの様な宗教を、『インストールするセキュリティ・ソフト型宗教』と便宜的に呼びたいと思う。そしてここでは、このタイプの宗教をすべて『カルト』と呼ぼう。このカテゴリーにはおよそこの地球上に存在する99%の宗教が含まれる事になる。ほとんどすべての宗教は『カルト』なのだ。

そしてこのインストールする宗教と対置される形で、もう一つ全く別の宗教形態が存在する。それが『アンインストールするリカバリ型宗教』だ。これは原理的に、この地球上で唯一カルトではない宗教になる。全ての宗教はカルトである、という先の定義に従うのならば、これはもはや宗教ではない。このカテゴリーに所属し、その完成度を最大限に高めた教えこそが、ブッダの瞑想実践に他ならない。

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