2012年6月12日火曜日

アナパナ・サティ ~ 呼吸意識の本質


脊髄と延髄が持つというその非情動性について、ここではまずブッダの瞑想法であるアナパナ・サティ(呼吸への気づき)との関連性から、呼吸中枢である延髄(+橋)の性質について考えてみよう。

大脳や小脳を樹冠にたとえれば、脳幹は文字通り樹の幹になる

延髄から見て、情動の門である大脳辺縁系の向こう側の世界は、排他と利己という情動、すなわち『マーラ』に支配された『サンカーラ』の論理によって統べられていた。その強大な力は、人類において格段に発達した前頭葉的な理性と利他の性質によっても、未だ十二分にコントロールし得ない獣性に他ならない。

その獣性は、私たちが動物として生存し子孫を残すために必要な、食料と配偶者という2つの資源が、基本的に他者と争って相互に敵対排除するプロセスを経て勝ち取られなければならない資源だったからだ。生物学ではこれを、環境中に限られた食と性を巡る熾烈な資源獲得競争と端的に表現する。

もちろん生き続けようと欲すれば、身の安全を確保しあらゆる危険を避ける必要がある、という大前提も忘れてはならない。

わが身を守る為には毒蛇を避け安全なねぐらを確保しなければならない。おまんま食うためには一生懸命他人に先んじて稼がねばならず、きれいな嫁さんをゲットするためにはライバルを蹴落として勝たなければならない。

私たちはそのような営みを、実に億年単位の長きにわたって繰り返し、現在に至っているのだ。考えてみれば、その前世の業、はなはだ深し、である。

しかし翻って、呼吸中枢によって獲得されるべき空気(酸素)はどのような性質を持っているだろうか。それは他者と争って勝ち取らなければ獲得できない希少な資源だろうか。

酸素を獲得するために、私たちは現在に至る億年単位の歴史の中で、いまだかつて一度でも他者と争った事があるだろうか? 

空気を呼吸するためにもがき苦しみ、額に汗して努力したことがあるだろうか。どの空気は毒があり、どの空気は栄養があるなどと選択を迫られる事があっただろうか。

あるいは、一息吸うごとに快楽に溺れ、一息吐くごとに苦痛にあえぐなどという事があり得ただろうか。

答えは明確にNOだ。確かに水に溺れる、病的な呼吸困難に陥る、あるいは誰かに首を絞められるなど非日常的な特異な状況下では、酸素を得るために私たちはもがき渇望する。しかしそのような状況下においてさえ、そこには性と食に見られる様な、『排他的』利己性、そして煩悩する『私(わたくし)』は微塵も存在しない。ただそこにあるのは、浜辺に寄せては返す、波の様な無心である。

空気、それは環境中に常に万遍なく存在し、すべての他者と分かち合い共有されるべき資源だからだ。

私たちは日常において、すでに獲得した呼吸に我を忘れて陶酔し、次の瞬間にはそれを失うかもしれないと恐れる事もない。それは疑問の余地のない自明として、アプリオリに十全に何の努力もせずに、自ずから与えられているからだ。

呼吸意識の基盤には一抹の不安もないという意味での『絶対安心』が存在する。

呼吸意識。それは数十億年という気の遠くなるような生命進化の歴史の中で、一度としてブレることなく一貫して排他的利己性に基づいた情動、すなわち『マーラ』とは完全に無縁でありつづけた。同時にそれは、快と苦の両極性を離れた中道意識に他ならない。それはまさに『仏性』そのものだと言えないだろうか。

そこにこそ正に、ブッダが苦行を捨ててアナパナ・サティの瞑想に決定(けつじょう)した理由がある、そう私は考えている。

アナパナ・サティの瞑想実践を深めていくにつれて、おそらく私たちの日常意識は、マーラの支配下にある大脳世界のあらゆるマトリックスを失ってこの仏性に限りなく近づいていく。それはヒンドゥ・サーンキャ哲学において、プルシャたるアートマンが『気息』に譬えられた事と見事に重なり合う。

その気息に止住し、そこから世界を観照した時、彼は一体何を見るのだろうか。そして気息へと深く下降していくプロセスにおいて、あるいはそこから帰還するプロセスにおいて、彼は一体、何を目撃するのだろうか。

もちろんこの瞑想において私たちの心が『リカバリ』されたとしても、それが完了した時に全ての記憶やソフトウエアが消去されているわけではない。私たちは基本的に今までと同じマトリックス世界に立ち返らなければならない。

それはいわばマトリックスの領域、すなわちサンカーラがプログラムとしてインストールされた領域からそれがインストールされていない領域への一時的下降離脱のプロセスだからだ。

けれども、もしこのプロセスがシッダールタの到達した領域にまで至った時、あるいはそこまでいかなくても、明らかに有意なボーダーラインを超えた時、私たちの日常意識に劇的な変容が立ち現れる事は十分に考えられる。

何故なら、その時彼はマトリックスの夢から完全に目醒め、その虚構性についてまざまざと観る事ができるからだ。そのプロセスをヴィパッサナーと言う。

ここに提出した『インストール宗教とアンインストール宗教』という思考の枠組みは、あくまでも暫定的な作業仮説に過ぎない。しかし、私の直感では、この方法論を採用する事によって、ブッダの教えを脳科学・生態学・進化生物学など現代科学の最先端の言葉に翻訳する作業が、限りなく高い整合性を持って、可能になる、そう感じている。

このブログにおいて提示される思索は、苦悩にあえぐ人々がブッダの瞑想法によってその苦しみから解放されていくリアルな『薬理的作用機序』を、万人に理解可能な合理的な形で明らかにする事を目指している。

もちろんこの挑戦は、あくまでもマトリックス世界の内部で知的に行われるものに過ぎない。どんなに論理的にブッダの悟りに近づいても、それがイコール悟りそのものの体験では絶対にない事を、忘れてはならないだろう。実際の悟りとは、正に大脳的マトリックスからの離脱なくしては到達不可能なのだから(2000年以上続く、行と学の二律背反!)。

次回からは、私の主観的な直感を、様々なデータ、個々の事例と共に細部にわたって客観的に検証していこうと思う。その作業を進める上で最も重要になるキーワード。それがインド世界に数千年にわたって通奏低音の様に伏流する『チャクラ(輪軸)のシンボリズム』だ。


新幹線0型車両の輪軸
全ての思索はここから始まった

まずは次回予告もかねて、この輪軸の写真を最上部に載せた脳構造図と重ねてみて欲しい。




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